「インド戦の内容を受けて」

『だからこそ、サッカーだけに限らず「本質を読み取る眼」が問われてくる。』という鋭利な文章には考えさせられたことは確か。
(このようなよくまとまった文面を切り取るのは良くないことだろうが)私はこの方の文章の隠れファンなのだが、久しぶりの投稿であり日頃からも好ましく思っているので少し紹介。

『少なくともジーコジャパンは、トルシエ・ジャポンの文脈では到底語りえない。むろん、それはジーコジャパンの在りかたが正しいとか正しくないとか言うのではない。ただ、いまさらジーコジャパンを「戦術」「技術」面で解釈しようとするのは愚かなことだと思うのだ。
彼らのデキを最も左右しているのは、疑いなく「精神的な充実度」なのだから。それらは、活字になったもの(取材者のバイアスが掛かったもの)から読み取るのは困難なもの。
だからこそ、サッカーだけに限らず「本質を読み取る眼」が問われてくる。』(KINDさん)

一面では、確かに。

『例えば、フィジコの「気合だ!」発言が槍玉に挙げられている。確かに、このコトバは同業者からみれば批判の対象になるのは間違いない。全(前)時代的な発言であり、プロフェッショナリズムの欠如を疑われるものでもある。だが、そんなフィジコが選手からの信頼を得ているとしたら、彼を「前時代的だ」と批判することにはさほど意味を持たない気もする。
結局重要なのは選手とスタッフとの信頼関係なのだから。
本番で空中分解したアテネ五輪代表と、本番で徐々に結束を固めていったアジアカップの日本代表。その違いは、そこにある気がする。』(KINDさん)

多くの問題や課題は積み残されたままなのだが、なんとか苦心惨憺の末、階段を少しづつ上りながらも果たして結果は出してる。その辺りの読み取りや分析、総括めいた書き方には時期的に未だ早いのかも知れないが、アジア杯を途中にはさんだ一次予選における変遷を表現した文章としては、非常に明確で面白いので紹介しておきます。