井原正巳

◇日本サッカー界、随一の超一流エリート

アビスパ福岡の監督である井原正巳氏について、少し振り返ってみたい。
筆者が初めて日本サッカーに触れたのは、1972年の正月、国立競技場の天皇杯サッカーである。
スタンドには、明治神宮の初詣でを終えた和服姿の華やかな女性たちが数多く目についた。
当時は、もちろんプロリーグもなく、今のようにサッカーが盛んな時代ではなかった。それでも天皇杯の決勝だけは、全国放送され、競技場のスタンドにも数多くの観客がいた。
お気に入りの杉山や八重樫、そして釜本たちの時代でもあった。
先般、亡くなられたデッドマール・クラマーさんの直々の指導を受けた選手たちが峠を越えつつある時代だったように思う。


井原正巳は、1967年生まれ。

滋賀県の守山高校から筑波大へと入学した。
彼が、選手として際立った活躍を始めたのは、大学3年の日韓定期戦。日本代表の守備の中核を担った、スタートとなった。
1988年の20歳の頃には、代表チームの中心選手であり、1998年のフランスWCまで、10年間、日本代表チームの守備の中心選手であった。

90年代前半の代表チームは、試合数は今ほど数多くはなく。
何より、サッカーは金にならないから、大手企業が大金を払ってスポンサードするわけでもなかった。
だから、せいぜい年間に5、6試合程度で、現在の半分以下だった。

その当時にあって、
井原正巳の代表キャップ数は、122試合と今でも史上2位を誇っている。
現在であれば、井原氏は200以上のキャップ数に届いたに違いない。


オフトに率いられたアジア大会、翌年、93年のドーハの悲劇、そして97年の歓喜のジョホーバルのゲーム。
あらゆる場面に井原はいた。
アジアの壁とも称された。

日本サッカーが全然、注目されない時代から、やがて熱狂渦巻くフランスWCまで、急成長する日本サッカー界の、右肩上がりの時代を、井原正巳はその中心選手として、そしてチームの主将として存在していた。

これほどの大きな偉業は、井原氏を除いて、誰もなしえていない。

井原正巳は、その体験と経験から、日本最高のサッカー人であり、最強の守備人であったと、言える。
疑いなく。

◇井原氏がいる間に

井原正巳が2部のアビスパ福岡の監督になって、間もなく1年目のシーズンが終わろうとしている。
前年まで、どのゲームも後半の失点は目を覆うものがあった。
今季のアビスパ福岡は、スタートにはつまずいたものの、その後、守備面でも大きく持ち直し、終盤は勝ち点82と、誰も予想してなかったような快進撃を続けてきた。
そういう意味では、井原の指導による守備の安定感が今シーズンのチームにもたらしたものはとてつもなく大きい。
先日、発売された雑誌の中でも、現在、守備面での中心選手である堤が、井原から学ぶことの多さを語っている。

若い選手を育てながら、チームとしての守備組織をしっかりしたものにした井原氏。
このまま、このチームが1部に上がっても十分に通じるものがあるだろうと思う。

もちろん、2部と違って、1部では、個の強さが全然違う。

柏レイソルで、ネルシーニョの下、守備構築を任されていた経験からすれば、このチームでもそれなりの戦力補強さえすれば、カテゴリーが上がっても大丈夫なように思う。


果たして、彼が何年、チームの面倒を見てくれるかわからない。
井原正巳はこれから、指導者としてもステップアップしていくだろう。
今のうちに、若い選手たちがその指導をしっかり吸収してほしいものである。