広島と鹿島 地方クラブのあり方 1

◇誇らしい広島らしさ
 クラブWC準決勝を見た。
J王者の広島は、堂々とした“らしい“戦いぶりで2戦を勝ち上がり、南米王者のリバープレートと対戦。
大きな舞台での戦い方を熟知してるリバープレートに0ー1で及ばす、惜しくも決勝進出を果たせなかった。

 ゲームの主導権は広島にあり、決定機もしっかり作った上での惜しい敗戦となった。
それにしても、オセアニア王者のオークランド(ニュージーランド)、アフリカ王者のマゼンベ(コンゴ)との2戦とも実に広島らしい見事な戦いぶりで、危なげなく準決勝まで駒を進めた。
広島の、チームとしてのゲーム運びもその内容も、クラブチームの世界一を決める大会の日本開催に相応しい、さすがに4年間で3度もJリーグを制覇した王者としての貫禄を感じた。

MF青山を中心にして、チームとしての戦い方を確立し、若い選手にまで浸透させている行き届いたチームづくりは、見てて、うらやましくも誇らしくなるものだった。

未だに中小の地方(エレベーター)クラブでしかない当方から見ると、広島は老舗クラブの味わい深さを、惜しげもなく世界の舞台で表現できるしたたかさを持っている。
同じJクラブの仲間としても、大きな感銘を受けるものだった。


◇3位決定戦へのモチベーション

 シーズン終盤の激闘を乗り越えてきた選手たちも疲労困憊ではあるだろうけど、3位決定戦では、対戦するだろうアジア王者の“憎き“金満・広州恒大を、なんとか広島らしい戦いで打ちのめして欲しいものだ。

 広島は、現在、悲願の専用スタジアムづくりに向けて、ようやく世論環境が整いつつある。ここで世界第3位のクラブチームになって、スタジアムづくりの早期の実現に弾みをつけて欲しい。 

 加えて、世界3位ともなれば賞金3億円が入る。自らのプレーを世界にアピールする機会にもなる。ここは青山はもちろん、未来ある皆川や浅野らに期待したい。

ローマにトッティ、福岡に城後

◇城後のテーマ

 久留米出身のチェッカーズの曲チェッカーズ ジュリアに傷心 歌詞&動画視聴 - 歌ネットのメロディが、今日も、東平尾運動公園・博多の森に鳴り響く。
替え歌ではあるが、試合ごとに、城後が決定的なプレーをするたびに、曲のサビの部分をサポーターがコールする。
 アビスパ福岡のキャプテン・城後のテーマソングは、観戦に訪れた子供もスグに覚える。

福岡ソフトバンクホークスの試合で、ヤフオクドームのピッチャーズマウンドで藤井フミヤが歌うように、博多の森で、この曲をいつか同じ久留米出身の歌手が歌うに違いないと思っている。
実現するのは、城後の引退の日かも知れないけど。

城後が愛される理由は、ハッキリしている。

彼のこころは、いつも地元のサポーターとともにいる。

 毎年、城後のもとにはJ1の強豪クラブからオファーが届く。それは、エース佐藤寿人の広島であったり、国内随一の人気クラブである浦和レッズであったり。
中でも、浦和の監督であるミハイロ・ペドロビッチは、誰よりも城後の能力にご執心である。浦和へ移籍すれば、城後の年棒は何倍にもなり、日本代表への道も近くなる。

 それでも城後は福岡を選び、福岡に残ってきた。



トッティと城後

 イタリアの首都ローマには、72000人以上を収容するスタディオ・オリンピコ・ディ・ローマに本拠を持つ、歴史あるASローマというセリエAのクラブがある。ASローマは1927年に創立された。

 ASローマには「ローマの王様」と呼ばれるトッティがいる。トッティは、20代の前半には既にローマのキャプテンを務め、かっては中田英寿もチームメイトだった。
 バロンドール候補に3度選出され、イタリア代表としてWC優勝を飾り、またセリエA最優秀選手を2度獲得したトッティは、チームでも代表でも得点能力に優れ、ゲームメイカーにもなる。
ローマ生まれでローマ育ちの彼は「イタリアサッカー史上もっとも完璧な10番」と呼ばれている。
 
 福岡(久留米)生まれの城後は、長崎県の強豪チーム、国見高校サッカー部でその身体能力を鍛えられた。1年先輩には中村北斗や平山などがいる。城後の3年の時には選手権でベスト4で止まったが、2回戦ではハットトリックも達成した。
 中学時代は、陸上の選手で、やり投げでジュニアオリンピックにも出場するほどであった。
 アビスパ福岡では攻撃的なMFとして10番を付け、井原監督の命で、今シーズンからチームのキャプテンを任されている。
口数も少なく、もともと恥ずかしがり屋である城後は、先輩の中村北斗等の後押しもあり、立派にチームの顔としてあらゆる場面で前に出る機会が増えた。
井原監督の信頼も厚い。

 ここ数年の苦しいクラブ事情もよく理解し、彼の判断や思考はいつでも「チームの為、スポンサーやサポーターの為」ということを第一義におく。

ローマっ子のこころにトッティがいるように、博多っ子のこころの中に城後がいる。、

5年間の苦境のあと

◇ドーハ世代

長谷川健太森保一の「ドーハ組」でのJ1王者を巡る戦いの翌日、井原正巳率いるアビスパ福岡プレーオフを戦い、5年ぶりのJ1復帰が叶うこととなった。
3人とも、共通してJリーグ創設時にプレーした経験を持つ監督で、鹿島の石井正忠や磐田の名波浩も含め、今季は彼らの世代が戦いの中心にあった。
今後は、ますますJリーグの指揮官の世代交代が顕著になってくるように思う。



◇感謝しかない

アビスパ福岡の、尋常ではない5年間(加えて2006年の大幅減資からの10年間)を振り返ると、何千文字、何百文字費やしても足りない。
それほど、大きな艱難辛苦の時期であった。
赤字を抱えた地元企業の九電や九電工の財務的な支援がなくなり、大きなスポンサードを続けたコカコーラはラグビーへと専念し、クラブとしての後ろ盾がなくなっていく中、更に下降するチームの成績によって観客数は激減した。途中、西鉄さんの大きな支援はあったが。
結果としてクラブ消滅の危機を迎えた。

その際、救いの手を差し伸べた中洲のふくやさんや、手を差し伸べてくれた全国の他のクラブのサポーターのご支援には、ただただ感謝するかない。
また、今年度のスタートに当たり、増資に参加してくれたアパマンさん。
それだけではなく、アパマンは有能な企業の幹部をトップとしてクラブに差し出してくれた。

あわせて、コカコーラが去った後、長年、主たるスポンサーが不在であった中、手を差し伸べてくれたのが福岡地所
キャナルシティやマリノア、木の葉モールなどを運営する地元の大手ディベロッパーの大きな支援は、本当に心強いものがある。

クラブを救ってくれたそれらの企業のその勇敢さには、ただただ感謝するほかない。


低迷するチーム成績、希望も夢もないどん底のクラブに、来てくれた井原正巳氏。
また井原氏をサポートする役割の三浦文丈コーチや鈴木健仁強化部長。三人は旧知の間柄である。

3人の救いの神にはただただ感謝するしかない。
この3人であれば、J制覇までの長い道のりもそれほど遠くないように思う。



◇聖地国立にも行ける夢

昨日、聖地・国立競技場への個人的な(特別な)想いを書いた。
ナビスコ杯や天皇杯の決勝の舞台であった「国立」。

今日の試合前、長居陸上競技場のゴール裏に全国から集う場面を画面で眺めて、その一つになった大集団を見て、自分たちも、今ならあの「国立に立てる」という確信を得た。

井原正巳の指導によって、チームは小さなことに動じなくなり、強い意志と最後まで粘り強く戦う意識が浸透してきた。

サポーターも(苦難の時を経ることで)小さなことに動じなくなり、相手をリスペクトできる強さを身に着け、大きな舞台へ立てる準備をしてきた、ともいえようか。


今なら言える。すべての時間は無駄ではなかった、と。


*次回は「トッティになった城後寿」について、時間あるときに。

聖地国立競技場

ナビスコ杯決勝
2000    川崎フロンターレ 0–2 鹿島アントラーズ
2001    ジュビロ磐田 0–0 横浜 F ・マリノス(PK横浜)
2002    鹿島アントラーズ 1–0 浦和レッズ
2003    鹿島アントラーズ 0–4 浦和レッズ 
2004    FC 東京 0–0 浦和レッズ(PK東京)
2005    ジェフユナイテッド千葉 0–0 ガンバ大阪(PK千葉)
2006    ジェフユナイテッド千葉 2–0 鹿島アントラーズ
2007    川崎フロンターレ 0–1 ガンバ大阪
2008    大分トリニータ 2–0 清水エスパルス
2009     FC 東京 2–0 川崎フロンターレ
2010    ジュビロ磐田 5–3 サンフレッチェ広島
2011    鹿島アントラーズ 1–0 浦和レッズ
2012    清水エスパルス 1–2 鹿島アントラーズ
2013    浦和レッズ 0–1 柏レイソル
2014    サンフレッチェ広島 2–3 ガンバ大阪(埼玉スタジアム)
2015    鹿島アントラーズ 3–0 ガンバ大阪(埼玉スタジアム)

天皇杯決勝
2001 鹿島アントラーズ 3 - 2(延長) 清水エスパルス
2002 清水エスパルス 3 - 2(延長) セレッソ大阪
2003 京都パープルサンガ 2 - 1 鹿島アントラーズ
2004 ジュビロ磐田 1 - 0 セレッソ大阪
2005 浦和レッズ 2 - 1 清水エスパルス
2006 浦和レッズ 1 - 0 ガンバ大阪
2007 鹿島アントラーズ 2 - 0 サンフレッチェ広島
2008 ガンバ大阪 1 - 0(延長) 柏レイソル
2009 ガンバ大阪 4 - 1(延長) 名古屋グランパス
2010 鹿島アントラーズ 1 - 1 清水エスパルス
2011 FC東京 4 - 2 京都サンガ
2012 柏レイソル 1 - 0 ガンバ大阪
2013 横浜F・マリノス 2 - 0 サンフレッチェ広島
2014 ガンバ大阪 3 - 1 モンテディオ山形(日産)
2015


◇聖地国立競技場

今はなき国立競技場のメインスタンドに着席すると、言葉には表現できない深い感慨を覚える。

最近は、公私多忙で足を運べていないけど、ナビスコ杯や天皇杯の決勝だけは可能な限り時間を作って観戦に訪れていた。
独特の雰囲気に浸りたいがために。

この15年間を振り返ると。
一番印象深いのは、オシムさんが初制覇した05年のナビスコ杯。
左半分を、真っ黄色に染めたジェフのサポーター。オシムさんとともに決勝まで足を運んだ彼らは、見ていて、とても誇らしく、晴れがましくあった。
試合は120分では決着がつかず、PK戦になり、瞬間、ベンチから大きな身体を引っこめたオシムさんの姿は今でも目に焼き付いている。



07年のナビスコ杯も印象深い。
あの年のガンバ大阪は、ガンバ史上、もっともバランスが取れたチームだったと思っている。
攻撃的なフロンターレも、中村健剛を中心にしたとても魅力的なチームだった。
川崎は14本のシュートを浴びせるもゴールネットを揺らせず、試合終了のホイッスルが鳴った後、ゴール前で座り込んだGK川島がとても印象的だった。

国立の左半分を埋め尽くしたフロンターレサポーターの誇らしげなコールは、今でも耳に残る。



同じ年の天皇杯決勝もこころに残っている。


鹿島アントラーズの優勝を置き土産にして、柳沢は京都へと移籍。試合終了後、1時間ほど、鹿島アントラーズサポーターのヤナギコールが国立の夕闇に鳴り響いた。




井原正巳とともに

国立のあのような舞台で、アビスパ福岡のサポーターが半分を埋め尽くすだろう感慨深いシーンは、私の長年の夢である。


国立を埋め尽くすサポーターの「俺たちがフクオカ」のコール!

サポーターも、国立の決勝に立って初めて感じるものがとても大きい。

井原正巳であれば、その夢が実現しそうにも思う。

井原正巳

◇日本サッカー界、随一の超一流エリート

アビスパ福岡の監督である井原正巳氏について、少し振り返ってみたい。
筆者が初めて日本サッカーに触れたのは、1972年の正月、国立競技場の天皇杯サッカーである。
スタンドには、明治神宮の初詣でを終えた和服姿の華やかな女性たちが数多く目についた。
当時は、もちろんプロリーグもなく、今のようにサッカーが盛んな時代ではなかった。それでも天皇杯の決勝だけは、全国放送され、競技場のスタンドにも数多くの観客がいた。
お気に入りの杉山や八重樫、そして釜本たちの時代でもあった。
先般、亡くなられたデッドマール・クラマーさんの直々の指導を受けた選手たちが峠を越えつつある時代だったように思う。


井原正巳は、1967年生まれ。

滋賀県の守山高校から筑波大へと入学した。
彼が、選手として際立った活躍を始めたのは、大学3年の日韓定期戦。日本代表の守備の中核を担った、スタートとなった。
1988年の20歳の頃には、代表チームの中心選手であり、1998年のフランスWCまで、10年間、日本代表チームの守備の中心選手であった。

90年代前半の代表チームは、試合数は今ほど数多くはなく。
何より、サッカーは金にならないから、大手企業が大金を払ってスポンサードするわけでもなかった。
だから、せいぜい年間に5、6試合程度で、現在の半分以下だった。

その当時にあって、
井原正巳の代表キャップ数は、122試合と今でも史上2位を誇っている。
現在であれば、井原氏は200以上のキャップ数に届いたに違いない。


オフトに率いられたアジア大会、翌年、93年のドーハの悲劇、そして97年の歓喜のジョホーバルのゲーム。
あらゆる場面に井原はいた。
アジアの壁とも称された。

日本サッカーが全然、注目されない時代から、やがて熱狂渦巻くフランスWCまで、急成長する日本サッカー界の、右肩上がりの時代を、井原正巳はその中心選手として、そしてチームの主将として存在していた。

これほどの大きな偉業は、井原氏を除いて、誰もなしえていない。

井原正巳は、その体験と経験から、日本最高のサッカー人であり、最強の守備人であったと、言える。
疑いなく。

◇井原氏がいる間に

井原正巳が2部のアビスパ福岡の監督になって、間もなく1年目のシーズンが終わろうとしている。
前年まで、どのゲームも後半の失点は目を覆うものがあった。
今季のアビスパ福岡は、スタートにはつまずいたものの、その後、守備面でも大きく持ち直し、終盤は勝ち点82と、誰も予想してなかったような快進撃を続けてきた。
そういう意味では、井原の指導による守備の安定感が今シーズンのチームにもたらしたものはとてつもなく大きい。
先日、発売された雑誌の中でも、現在、守備面での中心選手である堤が、井原から学ぶことの多さを語っている。

若い選手を育てながら、チームとしての守備組織をしっかりしたものにした井原氏。
このまま、このチームが1部に上がっても十分に通じるものがあるだろうと思う。

もちろん、2部と違って、1部では、個の強さが全然違う。

柏レイソルで、ネルシーニョの下、守備構築を任されていた経験からすれば、このチームでもそれなりの戦力補強さえすれば、カテゴリーが上がっても大丈夫なように思う。


果たして、彼が何年、チームの面倒を見てくれるかわからない。
井原正巳はこれから、指導者としてもステップアップしていくだろう。
今のうちに、若い選手たちがその指導をしっかり吸収してほしいものである。

決戦の前に

3位のアドバンテージは名ばかり。
アビスパ福岡にとって、5年ぶりのJ1昇格を賭けた一大決戦、リーグ戦4位のセレッソ大阪とのプレーオフ勝戦は、なんと(!)セレッソのホームで戦うこととなった。


・プロサッカーにおいてホームゲームとは何か
・年間を通して積み重ねた勝ち点の重みとは何か
・大きく広がるリーグ戦の勝ち点差とはどういう意味と意義があるのか

現実は、すべてをないがしろにしてる。


村井とかいうサッカー素人はじめ、興行優先の電通 に囲い込まれたJリーグ

村井某がどんな言い訳をしても、説得力に欠ける。

そういえば、アビスパ福岡の前の前の社長さんは電通出身だった。村井某と同じで口だけは達者だった。


◇井原氏の手腕

アビスパ福岡の今季は、昇格争いに組み込めるかどうか、つまり、「6位以内になんとか入れば。」という、当初の予想から、大きく期待を裏切り(いや、予想以上の!)戦績を収めている。

リーグ戦の勝ち点82という数字は、おそらく誰も予想していなかったに違いない。

今季の成績は、全て、井原氏の手腕によるものだと思う。
もちろん、背景に、会社のバックアップ体制の充実もある。

次の試合が、ホームの利をセレッソがどう生かそうが、現在のチーム力やベンチワークを比較して、客観的に見ても、アビスパ福岡の方に大きな分があるのは否めない。

果たして、勝利の女神はどちらに微笑むのか。
この時点では、大阪の地での最終決戦がどう転ぶかは、その結果は神のみぞ知るである。


個人的には、
あと1年、2部でやって、井原氏の手で強固な地盤を作ってからでも、全然、遅くはない、と考えている。
むしろその方が、その後に、1部で、長く戦えそうに思う。

何より、井原氏の最大の仕事は、守備面の充実。

中でも、U世代で米国代表にも選ばれた、米国育ちの濱田。
地元福大出身の1年目の田村。そして特筆すべきは、五倫代表にも選ばれる見込みの今年加入したGKの中村。
元々、素材としては優れた面を持っていた若い彼らを見事に育て上げながら、短い期間でチームを熟成させたこと。
これに尽きる。


もちろん、ジュビロ磐田の名波氏も頑張ってはいる。
しかし、今年は、井原という指導者が見事にデビューを飾った年として、後年まで記憶される年になるに違いない。

苦節20年

◇節目の1年
藤枝市から、福岡の地へサッカーチームを誘致して20年が経過する。
もともとはサッカー不毛の地。明治時代から続く3公社5現業のうちの一つ、九州電力を中核にした地元株主企業。サッカー素人の出向幹部社員。
 クラブも会社も脆弱な体制は長く続き、チームは、その間、大きな荒波にもまれ続け、クラブ自体が存続の危機を迎えたのはホンの1,2年前である。

地域に根ざしたホームタウン活動以外には誇るべき成果は見られない。

しかし。

苦しいことばかりは続かない。

そして。

夜明けの来ない夜もない。


 2015年という年は、アビスパ福岡にとって、大きな大きな節目の1年となった。
実はシーズンはまだ終わっておらず、(11月30日現在)J1へ上がる為のプレーオフ決勝のゲームは残している。
1部に上がるのか、このままあと1年、2部に残るのか。
そんな中でも、明確に言えることがある。
この1年で、ようやくプロサッカークラブへと足を踏み始めることになった。
アビスパ福岡は生まれ変わった。


 クラブの成り立ちやチーム強化という点においても、根底から大きな変化を上げた1年となった。
実社会で百戦錬磨の企業経営をしているアパマンという企業が資本参加し、社長を派遣。
思い付きだけの営業しかして来なかったこれまでと違い、アビスパ福岡としては、実社会で企業実績の苦難を体験した幹部をはじめてトップに据えた。
そして、近代の日本サッカー界ではレジェンドともいうべき(WCでキャプテンを務めたほどの)井原正巳という指揮官を抱いた。
 新人監督とはいえ、長く名将・ネルシーニョの下で薫陶を受けたのが井原氏。井原氏にとっても、満を持しての監督就任である。
井原氏は、おそらく将来の日本代表チームを率いるだけの存在になるだろうと目されるサッカー人生を歩いている。そう、あとは指揮官としての経験だけ。

◇蘇った「敬意」
これまで、多くの落胆や苦難が繰り返し繰り返し襲ってきたにもかかわらず、サポーターは、それでも我が町のクラブを見つめ続けてきた。
上記に書いたように、クラブが消滅するかも知れない、そんな時期もあった。


 実は、今年1年で、一番大きく変化したのは、サポーターの意識の変化だと感じている。
クラブ経営に対する「敬意」、
チームづくりに対する「敬意」、
指揮官の指導ぶりに対する「敬意」
成長する若い選手たちへの「敬意」。

そして20周年記念試合で見られたような、OB選手たちに対する「敬意」。

 アビスパ福岡を取り巻く人々にとって、本来あるべき「敬意」が見事によみがえったといって良いと思う。
何より、これまで、勝ち点が積みあがるたびにそれはおおきくふくらんできた。