北朝鮮戦を前にして

しばらく考えた。

A.今の代表のゲームは、つまらない。期待通りのサッカーをしてない。
B.チーム自体が弱くなっている。戦術的にも後退している。
C.時間があればTVで見る程度。以前のように集中(熱中)できない。生観戦するほどのこともない。(埼玉スタジアムも空席が目立った)

といった意見は良くわかる。何故なら、自分がそうだったから。
そして、自分の”サッカーアイデンティティ”のためにも、そういう位置取りを取り続けたい、という気持ちも十分に理解できる。

どのように自分が「サッカーと関わるか」、どういう風に自分が「サッカーと対峙するか」は、人それぞれだとも思う。

私は、サッカーそのものが好きで、いいサッカーも悪いサッカーも、サッカーだと思ってる。スポーツだと思っている。

そして、代表チームは、もうここまで来たら引き返せない。
こうなったら共にするしかねぇじゃねぇか、とも思っている。

つまらなかったり、グダグダだったり、大きなストレス感じたり。
しかし、そうではあっても、少し距離を置きながらも、今の代表チームを見守って行こうと、ある時期から思うようになった。

私は、○○派とかいう表現が嫌いで。人は、その音色も、音質も、呼吸の仕方も、一人ひとり違うと思っている。そう簡単に選別できるものではないと。
私は、ジーコは個人的には好きだけど、代表監督については、もっとマシな、経験に富んだいい監督であったら良かったのにと今でも思っている。内心は、機会があれば代わって欲しいとも思っている。

しかし、それはもう間に合わないことなのだ。敗北の地にまみれないと実現できないことなのだ。

私は、昨年の夏以降、そしてこの新年になってからというもの、選手たちのモチベーション、ピッチでの動きに、最近少しの変化を見ることができるようになった。
まだまだグダグダなところももちろんあるけれども、小さいけど、明らかに成長や進歩が見られるようになってきた。
セレクターでしかないジーコの選手選別にも、少し変化が見られるようになってきた。

おそらく、この先、イラン戦やバーレーンと戦うときに、日本のサッカー界に、大きなプレッシャーとストレスが襲うに違いない。
私は、その荒い大きな”うねり”の海を泳ごうと思うようになった。今の代表チームの選手たちと、この時代の不安定な運命をともにしようと決めたのだ。
これは自分へのメッセージであるが、いつまでも毒吐いてるだけの、幼児性ネガティブは身体に良くない。