筑前の国の男たち

■「博多の男」の源流

興志塾(私塾):高場乱(主宰)、式部小四郎、進藤喜平太、平岡浩太郎、頭山満、奈良原至、来島恒喜、月成光

明治の初めに筑前の国の20歳前後の若者たちで結成された興志塾は、後の玄洋社の礎となった。
彼らの大半は後に西郷隆盛ら鹿児島士族が決起した西南の役に呼応し、福岡城奪取に失敗。その後、出獄して板垣らの自由民権運動展開の九州の中心となる。

「ただ、そこには燃えさかる様な炎があった。烈々宇内を焼き尽くす炎があった。頭山がやるというならおれもやる。奈良原が死ぬというならおれも死のう。貴様も来い、お前も来い、というような純粋な精神の集まりがあった。」(夢野久作「近世快人伝」より)

彼らは公的な教育制度の不備を補うためと人材育成の為に「藤雲館」(後に修猷館に吸収)を設立。向学心に溢れた人材は次々と出現し、後に筑前福岡が誇る人材、広田弘毅中野正剛緒方竹虎を世に出すこととなった。
頭山満という男
玄洋社の中心人物となる頭山満(1855-1944)は、国内よりも拓かれたアジアへ目を向け、「自分たちの国を持ちたい」という人々に救いの手を差し延べる。いずれも教科書にも歴史の史書にも残されてはいないが、朝鮮、中国、インド、フィリピン、アフガニスタン、トルコ、そしてエチオピアまで広がる。
日中戦争、太平洋戦争では日中和平工作に働く。

信義を守る人が好きであった孫文の、頭山満は数少ない心を許した日本人の一人である。亡命中の孫文を、官憲や刺客から守ったのは頭山満である。
頭山は、インドの独立のために闘ったタゴール(アジア初のノーベル賞受賞者)とも親交を結ぶ。

頭山は、「右翼」と一言で片付けられない筑前玄洋の基を作った人物で、西郷隆盛(1828-1877)の「敬天愛人」の精神を実直に受け継いだ人物といえようか。
■戦時に動く
中野正剛(1886-1943)も玄洋社の出身である。英国留学の経験を持つ中野正剛は、太平洋戦争のさなか、時の首相・東条英機を批判することによって憲兵に引っ張られ自決に追い込まれた。中野の当時の論は真に明確であった。

「国は経済によりて滅びず、敗戦によりてすら滅びず、指導者が自信を喪失し、国民が帰趨に迷ふことによりて滅びるのである。」(中野正剛著「戦時宰相論」より)

中野はファシストでもあったが、東条英機の独裁を止めようと正面からぶつかりあった。
進藤喜平太の四男・進藤一馬(後の福岡市長)は中野の秘書でもある。
そして、「自ら弁明せず」の広田弘毅(1878-1948)ほど筑前福岡の男の生き様を生きた者はいない。彼はいい訳を嫌い、自らの立場を良くするために余計なことをぺらぺらと表現しない人物であった。
2.26事件の混乱の後、本人は拒み続けたが近衛文麿吉田茂らの説得によって首相になる。彼は頑強に終始戦争には反対していたが、A級戦犯(彼を減刑するように署名運動もあった)として歴史の海に葬り去られた。
緒方竹虎
緒方竹虎(1988-1956)は、中野正剛と同じく修猷館ー早稲田ー朝日新聞社と竹馬の友である。どちらかといえば中野が武闘派で緒方は文治派。
実は、緒方は東京高等商業(後の一橋大)で学生運動のリーダーとして退学し中野に請われ早稲田に転入している。
新聞人でもある緒方は金銭上公私の区別に厳しく、剛直な性格で、2.26事件時に朝日が襲撃された時にも主筆であった緒方は、これにひとり悠々と応対し、反乱軍を引き上げさせたことは有名である。
後に政界に身を転じたが彼の人格と見識は、政界でも高く評価されていた。
自分は、緒方の書を市内の古い料亭で見たことがあるが、それはそれは見事な書であった。
それは、土佐の志士、中岡慎太郎の書に出会った時の衝撃にも似ていた。

自分の身の周りの近くにも、筑前玄洋の血を受け継ぐ方がいらっしゃったが、彼らの人物的魅力のひとつがとにかく潔いこと。そして清廉潔白であることであった。
いつでも軸はブレない。この地からは、志のみで生きる己の利得など眼中にない人々が数多く輩出したのだ。
明治以降近代の誇るべき博多の男たちから学ぶことは多い。