秋田から、金古へ

orion10142004-04-04

JR博多駅から徒歩10分。福岡市博多区にある東福岡高等学校はサッカー名門校である。
現在も、レベルの高い県内においては筑陽学園東海大五高とともに、いずれの大会でも上位進出の常連校である。しかしここ数年は、寺西名コーチの逝去や志波前監督の不祥事発覚等の後は、この2校に後塵を拝している。

その東福岡高校が、一番輝きを放った時代が、センターバック金古の時代である。金古がキャプテンであった98年にも、全国サッカー選手権で連覇したが、2年生であった97年は、輝かしい”高校3冠”の年度であった。
その年度は、他校がうらやむようなメンバーが揃いっていた。DFに手島(3年、パープルサンガ)、金古(2年、アントラーズ)、千代反田(2年、アビスパ)、MFには宮原(3年、グランパス)、本山(3年、アントラーズ)等、将来のJリーガがゴロゴロといたのだ。

さてその後。金古は、99年に準優勝したワールドユース代表メンバーとして、トルシエ監督に目が止まり小野、稲本、本山、遠藤らとともに選出された。しかし、残念なことに大会前のアフリカでの合宿で、金古は大怪我をしてしまった。

金古の、怪我との苦難の戦いがその時から始まるのである。

その後、
鹿島でも怪我と治療とを繰り返し、レギュラーの座はおろか出場の機会はほとんどなかった。
入団して5年間で、リーグ戦は23試合しか出場の機会はない。プロになってからの彼の出場は年間平均4.6試合でしかなく、しかもここ2年間は、02年に3試合、昨年、03年には2試合しか出場していないのだ。

さて、今季。
J開設以来の鹿島の、チームの精神的支柱であり大黒柱としてセンターバックをはってきた秋田がチームの若返りという名の人員整理で解雇を言い渡された。秋田は生まれ故郷の名古屋へ帰り、地元グランパスへ移籍した。

その栄光の背番号は、選手生活の運命をずっと怪我とともに歩いてきた金古が、期待を背負って受け継ぐことになった。

4月4日。
J1が開幕しての4試合目の鹿島スタジアム。金古は今日もアントラーズセンターバックを大岩と共に、はっていた。

試合開始前、名古屋へ移籍した秋田が、鹿島サポーターの強烈なブーイングを浴びて、ピッチに入場してきた。秋田は胸を張って、前を向いて入場してきた。
秋田の解雇に納得しないサポーターが大騒ぎし、送別会をしたのはその4ヵ月前だった。
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名古屋を迎えた鹿島は、シーズイン後相変わらず前線での連携がうまく機能していなかったが、小笠原や本山の頑張りでゲームを支配し3−2で勝ち点3を収めた。
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勝利を呼び込む決勝のゴールは、見事な金古の、ヘディングシュートだった。
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後半21分。右サイドバック名良橋のクロスに合わせたボールは、ゴール前に立ちはだかる秋田と、日本代表GK楢崎をもってしても反応できないものだった。