5月の記念日

誰が決めたか、毎日が記念日なのですね(笑)ちなみに今日は、ゴーヤの日だそうです。
5月9日:母の日、アイスクリームの日
5月12日:看護の日
5月14日:温度計の日
5月15日:ヨーグルトの日
5月16日:旅の日
5月18日:ことばの日
5月20日:森林の日
5月23日:「恋文の日」、KISSデー
5月28日:ゴルフ記念日
5月29日:こんにゃくの日
5月30日:掃除機の日
5月31日:世界禁煙デー
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「心の中のふるさと」(荒木忠夫さん作)より抜粋
<母よりの年賀状>の章
『天草の正月もまた、母を通じて、私の心の中にひとつの風景を残している。
それは、私が中学3年生で、高校受験を間近に控えた頃のことであった。私は、先生の勧めもあって、他の友人と共に、天草島を離れ、熊本市内の高校を受験することを目標に頑張っていた。
市内の高校に行くことになれば、下宿が必要で、そのために要する費用は大変なものであった。八人の子供を抱えた五反農家の父母には、とうていそのような余裕などなかったのである。
それでも父母は何とかして、私を希望通りの高校に進学させようと、いろいろ努力したようであるが、やはり、無理だったのである。
12月のある寒い夜、父は私を囲炉裏の端に座らせ、市内の高校をあきらめて、地元の高校に進学して欲しいと言った。
私は、泣きながら父のかいしょうの無さを大声でののしった。
日頃、厳しい父も、その時は無言で何かを噛み締めているようであった。
母は、何かを頼むような目で私をじっと見つめ、その目には涙が光っていた。
しかし、私は、消えかけた囲炉裏の火を見つめながら、父母をののしり続けたのであった。
それから、私は勉強もせず、家族にも口をきかない日が続いていた。
そのため家の中は毎日、何となく重苦しい日が続いていた。そして、年が明け、元旦となった。
私は、家族全員で毎年行う初詣にも参加せず、一人でふとんをかぶって寝ていたのであった。
朝、目を覚ますと、枕元に五、六枚の年賀状がおいてあった。私は床の中で何気なくそれを手にし、たいした感情もなく。一枚づつそれをめくっていった。
それはほとんど同じクラスの友人達からのもので、今年も頑張ろう、今年もよろしく、という内容のものであった。
しかし、
最後の一枚を読みながら、私は、驚いた。
それは、およそ、年賀状らしくない長々しいものであり、鉛筆書きで、ところどころなめたらしい濃い部分が残りカタカナまじりで書かれていた。差出人の名前はなかったが、私にはそれが、同じ家に住む母からのものであることは、すぐにわかった。
【お前に、あけましておめでとうと言うのはつらい。
でも、母さんは、お前が元旦に、みんなの前で笑いながら、おめでとうと言ってくれる夢を何回も見ました。
母さんは、小さい頃、お前が泣き出すと、子守唄を唄って、泣き止ませましたが、今はもうお前に唄ってやる子守唄もないので、本当に困っています。
今度は、お前が母さんに親守唄を唄って欲しい。】
十四歳の私は、元旦の床の中で声をあげて泣いた。

それは、中学3年生の反抗期の私に対する母の心からの子守唄だったのである。
この子守唄のおかげで、私は立ち直り、地元の高校に進学し、その後高校卒業と同時に大学へも進学した。父は、私の大学入学の時、大切に残してあった山の種松を売って三万円の入学費用を作ってくれたのであった。
その後は、私は父母の援助をほとんど受けず、アルバイトと奨学金で大学も卒業することができたのであった。そして、現在の会社に就職して、もう十六年の年月が経ち、長男はやがて中学生になろうという年齢になってしまった。そして、昔の私と同じように、もう、親に反抗し始めているのである。
しかし、私の心の中にふるさとの母の心の匂いのするオンの池の赤い灯台と、天神山のやさしい風景がある限り、私は、大丈夫だと考えている。
母も七十歳となった。この母が、これからはどんな子守唄を唄ってくれるのだろうかと考えながら、同じふるさと出身の妻と、反抗期の子ども達を連れて、私は母の住む天草島に、今年もまた、帰りたいと考えている。』

「母の日を前に 小さくなった 母を想う」(藤氏郎さん作)
「日ごろは 悪態ついてるけど 母ちゃん ごめんね」(大野さん作)
さて、
貴女のこころに 美しい花を咲かせるために あした 花を贈ろう。
もう少し長生きして欲しいと思いながら・・。5月9日は「母の日」



*写真は、「野間大池公園」を静かに泳ぐカモ