「三国志の旅」4.

orion10142005-01-28

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■「中原」を狙え
黄河流域と長江流域(揚子江流域)に”はさまれ”た、豊かな土壌を持つ、それはそれは広大な区域を、「中原地方」という。三国志でいうところの劉備諸葛孔明が最も”望んでいた”地域であり、彼らが滅びるまで戦い、目指していた地域のことである。
さて、劉備(主に諸葛孔明か)は、孫権曹操の2国と互いに長い期間を戦い続けた訳だが、結局豊かで富裕なエリアは手にできず、一番遠くの弱体な国を自分のものにするしかなかった。
それが、蜀であるが、今の、重慶あたりがその入り口で、都は成都四川料理で有名な地域でもある。
*写真は、樊城より長江最大の支流である「漢水」を望む。乾季であったが、水量多く、川の水というより大海の水が大きな塊りとなって通り過ぎていく、といった状態だった。雨季になるとどうなるのだろうと、一瞬思った。

三国志」をサッカーになぞらえるには、大きな無理があるのだが、「中原」こそが中盤といえようか。そして、中原の南に「荊州」はあった。荊州は、ボランチとディフェンスの間のスペース。しかも食糧倉庫とも言って良いくらいの豊かな土地であった。
中盤を制したものはゲームを制すという言葉をどこかで見かけた気もするが。劉備にとってのバイタルエリアを突く役割は、実は関羽が果たしていた。
・・
蛇足だが、日本の選手で、バイタルエリアにスペースを探し、スペースを創り出し流動化させるのに優れた選手がヤナギ。バイタルエリアでファールを貰うのが得手なのが隆行だと思う。どちらが、関羽なのか知らないが(笑)
その内側、ペナルティエリアとなると、今一番うまいのは大黒でしょうか。「それ、ニステルロイだろ」とプレミアみながら長男が口を挟んでいましたが(笑)

荊州と「襄陽サロン」
しかし、中国全土を彷徨いながら、自らの野望のために多くの主につきながら、そして離れながら、劉備たち(劉備関羽張飛ら)は、諸葛孔明を得て、蜀の国をようやく手にする。
そして、劉備陣営は、当時の中国でもっとも豊かで、重要な交通の要所でもあり、戦略的に重大なバイタルエリアを、一時期所有していた時期があった。
劉備が、(孔明の悪知恵を使い)呉の孫権から期間契約で借り受けていたのだが。そこが「荊州」である。中原地方の殆どが曹操の手に渡った後のことである。

荊州は、現在の荊州市のことではなく、三国時代には現在の湖北省湖南省の全域、河南省、陜西省の一部を含む広範囲に広がっていた。その面積は日本の国土くらいに広い。

その中心都市が現在の襄樊(じょうはん)市である。

襄樊には、長江中流の要塞・武漢から鉄道に乗って行った。8時過ぎの列車に乗り昼前に到着したが、西へ約350kmくらいはあろうか。上海からはおおよそ1500kmくらい西にあたる。

荊州の都である古都・襄樊は、当時は、その名を襄陽といった。

実は、現在の襄樊市は、長江最大の支流・漢水をはさんで樊城と襄陽の二つのエリアに分かれている。


三国志時代の以前から、この地方は政治的にも生活も安定し、天下の学問の中心地でもあった。当時でも全国から数百人の学士たちが集い「荊州学」とも言われるくらいに盛んであった。

「古文学」や「通理」(つうり・一般にいう道理のこと)などを学ぶ多くの遊学者たちが集った。
彼らは政治からも一定の距離を置き、独自の社交界を作り交友を重ねていた。これを別名「襄陽サロン」ともいった。

「襄陽サロン」に参加していた諸葛孔明も、襄陽からほど近い郊外の古隆中(こりゅうちゅう)に居を構え、兵法や易学、五経などを熱心に学んだという。

古隆中には、三国志に関心・興味がある方は、一度行くと良い。大きな山ひとつほどの敷地に、小さな草庵を構え、孔明は日夜、勉学に勤(いそ)しんだ。
現在は、その山の入り口には巨大な大学ができている。中国の若者たちが諸葛孔明の懐(ふところ)で学んでいるのだ。
2千年近く前に孔明が使った古い井戸には、今でも湧き水が絶えることがない。透き通った水を湛えていた。孔明が耕した畑、そして蓮根を栽培した小さな沼(池)など、今でも生活しているのでは、と思えるような雰囲気を醸し出していた。出かけたのは、私たち以外には旅行者もいない寒い冬の日でしたが。
*蛇足ですが、中国旅行は、自らしっかりとした予定さえ組めば、日本の国内旅行の半分以下の費用で行けます。

政治からは一定の距離を保っていたはずだが、「襄陽サロン」のメンバーのうち、やがて、諸葛孔明、龐統、習禎、馬食らが劉備に仕え、龐山民、孟建、石韜らは曹操に仕えた。また諸葛孔明の弟・諸葛均は後に呉の孫権に仕えることになる。

彼らの知識、知恵、深くものを考える力なしには、武将たちは戦えなかった、といえようか。

■「樊城の戦い」
三国志は、戦いの歴史であるが、合計124回の壮絶な戦(いくさ)のうち、なんと84回が荊州を舞台にした戦いであった。
三国志の後期にあたる紀元219年、今から1786年前、ここ樊城も、壮絶な戦いの舞台となった。
「樊城の戦い」である。
戦略的要地であり、交通の要所でもある樊城は、曹操孫権劉備たちが斉しくその領有を望んだ。
219年、その南にある広陵を守備していた蜀の関羽が、北へと兵を進め樊城の攻撃に移った。曹操はその情報を聞きつけ増援部隊を派遣した。
関羽は、曹操軍が立てこもる樊城を取り囲んだ。そして、ひたすら秋の長雨による漢水の水位上昇を待つ。陸の孤島となることを狙ったのだ。
漢水上流から集まった雨水は平坦地でも12mを越えるほどになったというが、立地条件や気象条件に熟知していた関羽は、自然の”水攻め”を待って大勝利する。
樊城の戦いに敗れた曹操軍は、謀略を図る。
呉の孫権をこの戦いに巻き込む。
しかし、勢いに乗った関羽は、多くの捕虜に食わせる食料確保のために、なんと呉軍の備蓄食料から略奪する。
これをキッカケとして呉の大軍が関羽を襲う。次々と起こる三国の激しい諜略戦の中、関羽は次第に追い込まれ、麦城で最期を迎えることになる。

「樊城の戦い」は、関羽を、死へと追いやる彼の勝利の戦でもある。

そばに孔明や、趙雲たちがいれば、また違った結果になったのだろうが。
この関羽の死を境にして、劉備陣営の凋落が始まる。
劉備は、まわりの助言に耳を向けようとせず、終始一貫、「関羽とむらい合戦」へと向かう。
そして、やがて劉備のその人情厚い生き方が、国(ファミリー)を滅ぼしてしまうことになるのだ。劉備は、その点曹操と違い「将」の器ではなかったのだろう。

■巨大な「城壁」
日本のお城は、天守閣がある。つまり殿を守り、殿を中心とした城下町を作る。

私は、どこより松本市にある「松本城」が好きなのだが、加藤清正の「熊本城」も、なかなか見事なものだ。

中国には、そういった天守閣などない。殿を中心とした街つくりの考えなどとらない。中国の城とは、城壁のことである。万里の長城はじめ中国各地には見事な城壁がある。知らない私は、いつも天守閣を探そうとしていた。天守閣に間違って見えるのは、城門でしかない。

韓国の首都ソウルにも巨大な城門があって、中でも南大門(ナムデモン)、東大門(トンデモン)は、勇ましく存在し、ソウルの歓楽街や繁華街を見下ろしている。
昨年、出かけた韓国水原(スーウォン)市にも、街の中心部に華城があり、延々と続く城壁の北側の「長安門」は、美しくも気高さを感じる城門であった。確か、「世界遺産」になっていた。
荊州市にある関羽が作ったという「城壁」は街の中心部に巨大に建っていた。なんとその城壁内部に25万人の人が暮らしている。この城壁は想像を絶する大きさであった。荊州めぐりについては、後日書きたい。

美しさは、「樊城」だろうか。この歴史ある城壁は、何度も何度も改修・補修を重ねている。
中国の城とは、敵から住民を守るためにある、と言っても良いかもしれない。
*写真は、樊城の城壁の上部。かなり広い。