「三国志の旅」5.

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魅力的な「三国志の武将」たちは、なぜ生まれ、世に台頭したのだろうか。
ことの始まりを一度、振り返っておきたい。

  蒼 天 己 死。
  黄 天 当 立。
  歳 在 甲 子。
  天 下 大 吉。

「蒼天すでに死し、黄天まさに立つべし

 歳は甲子にありて、天下大吉ならん」


■宦官政治
紀元180年を過ぎ、後漢朝の落日は明らかであった。
そして落日はいつの世も腐敗とともにやってくる。
当時、皇帝の政治をあやつっていたのは「宦官」(かんがん)であった。
宦官は、おとこ根をそぎ落とし宮廷の女官に仕えるべき者たちをいうが、政治の後ろに隠れるはずの彼らが腐敗の根元のひとつであった。
賄賂の味を覚え次第に権力を有するようになる彼らは、自ら皇帝の黒幕となって政治を動かし、やがて地方には彼らの兄弟・親族たちが地方官として任命され、権力を笠にきて、人々の財産を奪っていく。
男として使うべき精力は、どこにも向かわない。ひたすら腐敗へと向かったのだ。
そして政治の癒着・腐敗は、必ず民衆を虐げる。
*下に、サッカーファンさんから、宦官制度についてコメントがありました。<以下、「宦官」について追記>
わが国が、長い間これ程迄に大陸文化の影響を受け、その文化を重用したにも関わらず、日本へ「宦官制度」が何故入らなかったのか?(この当たりは、三国史とは直接繋がりませんが)少し触れてみたいと思います。

中国における宦官制度は、殷の時代に遡ることができます。つまり紀元前1400年程前からあると言われています。
1.宦官は、異民族の捕虜(奴隷)などがその最初の成り立ちといいます。
2.後の時代には、貧困を理由に、親がわが子を宦官にした例も多くあるそうです。できのいい宦官なら一気に出世し富を手にできたとも。
最近は、自らの性的障害からわざわざ取る人も出てきてますが、その去勢技術に、中国の医術の発達を見ることもできます。
2.宦官には、宮廷内の特殊なしきたりや制度を学ぶ必要がありました。厳しい作法もあったといいます。
3.下級宦官は、まことに悲惨な生活。上級になるために日夜努力するものが多くいたといいます。その差は天国と地獄に等しいとさえ。
4.古代中国には、性器の切断以外にも足、鼻、刺青などの刑罰がありました。もちろん極刑は死刑。
5.ものの本によると「宦」という字は、「神に仕える奴隷」という意味もあるそうです。
6.後の時代には、宦官も結婚するようになり、無論、子供は作れませんが、慈悲深い生活をしたといいます。
7.宦官が一番勢力を誇った時代が三国の志士たちが勃興する直前であったのでしょう。

さて、中国では長く続いてきた宦官制度が「何故、日本へ渡来しなかったのか?」
私は、異民族との接触(争い)がなかったからだろうと思っています。日本には騎兵というものも発達せず、馬を「去勢する」という習慣もなかったわけです。
また古来日本は、中国ほど「貞淑」という概念が希薄だったのではないかとも。
宦官は、中国特有の制度ではなく、古代のギリシアローマ帝国オスマン・トルコでもあり、中国からはベトナム、朝鮮にも伝来しているといいます。

新興宗教の台頭と黄巾の乱
当時、新興宗教集団「太平道」こそが世を憂い民衆の先頭に立ち、腐敗を断とうと黄巾を旗印に戦った。
民衆が蜂起したのだ。しかし彼らも所詮組織化された軍にはかなうはずがない。
国家は、黄巾族を討とうと立ち上がるが。自らの内に巣食った宦官をいつまでたっても排除することはできなかった。
*「太平道」の教祖・張角については機会があれば後にでも書きたいと思っているが。この魅力的なカリスマと、宗教を組織化(軍)する理論はなかなか興味深い。
■内憂外患
内側が弱体化すると外敵は強く動きを見せる。
南からは、交阯(ベトナム北部)、西方では北地郡(チベット羌族)で、次々と叛乱が起きる。異民族の侵入も始まる。

増税
土木工事大好きな、為政者として能力の低い霊帝は、増税しか思い浮かばず。民衆を苦しめる。
民衆のこころをつかめない皇帝の代わりに有能な地方武士がやがては台頭していく。

地方の武将たちは次々と戦に向かう。

黄巾族の一掃そして、宦官たちへの征伐へと。

腐敗を正し、政治を浄化し、悪を征伐するために。

三国志の武将たちの「コトの始め」はこうやって生まれたのだろう。
おそらく。

その勃興、維新の志士に似て。