アメリカ遠征

サッカージャーナリストというその道でメシを食っている人、食おうとしている人は注意した方がいいと思うが。自らが大して知らない世界のことについては、それも己の底の浅い文化論を語るのはどうかと思う。
自ら生活したり何度も訪れた国の文化について語るのなら未だしも。
これでは某女史と同じ穴のムジナである。

「ただ単に興味がなかったといえばそれまでの話なのだが、私の場合、サッカーファンであるがゆえに、どこか、かの国に対して意固地になっていたという面も否定できないように思う。あなたがサッカーファンを自認するなら、きっと多少は身に覚えがあるだろう。強力な政治力と経済力、そして軍事力でもって、世界に“独善的なグローバル・スタンダード”を押し付けようとする昨今のアメリカとアメリカ的なるものに対して、劣等感を抱くことなく「否!」と言えるのは、ほぼ決まってサッカー好きの人々である。今のところ、アメリカが唯一、世界一になれないのが「男子」サッカー。この事実が覆らない限り、われわれサッカーファンがアメリカを前にひざを屈することはあるまい。」

この方には好意的に思っているし、サッカージャーナリストとしても物書きとしても大いに期待している。
しかしこれは頂けない。
独善的とはこのような文章を言うのだろう。己の個人的なBLOGなら未だしも、公に晒す内容としては全くお粗末。

何も「アメリカ論」をこちらで展開するつもりはないが、ここでは個人的対米感情など犬も食わぬ。
強いて書くならば、アメリカこそ移民の国であり、その暮らしを見れば雑多な人種の集まりであり、あらゆるものを偏見なしに受け入れようとしている国であり。どんなに権力をかさにしようがかの国はあくまでも自主的であるがゆえに自由であり、その進歩性ゆえに他国をリードする経済性を有してきた。むしろ我々の国はそれを模範にしその傘の下で大いに恩恵を甘受してきたのだ。そのことが良かれ悪しかれ
ついでに書くが。この筆者は、地域のサッカー大会においてはどこにでも転がっている排他的な煽りを、前回のアジア大会においてあたかも現代中国がどうにもならぬ位に反日的で文化的に遅れた人種であるかのように、独善的に書いたこともあった。

政治的な側面で浅い文化論を語っても誰も納得などせぬ。サッカーはどんなにあってもサッカーでしかない。
しかもアメリカ代表は我々の代表よりも明らかに格上で、かなり魅力的なサッカーをしている。
無論、我々の代表には頑張って欲しいが。

[アメリカ代表W杯戦績]
1930年(ウルグアイ)ベスト4
1934年(イタリア) 一回戦敗退
1950年(ブラジル) 一次リーグ敗退
1990年(イタリア) 一次リーグ敗退
1994年(アメリカ) ベスト16
1998年(フランス) 一次リーグ敗退
2002年(韓国・日本)ベスト8

■<追記>

サッカーは、代表ゲームにおいては「国と国との戦い」のように思えるし錯覚しがちになるが、実はそれは「あくまでもその国を”代表する”選手たちが一つのチームを作り、サッカーゲームをしているに過ぎない」
それと、国という共同幻想や集合体を持ち出し、政治体制や政治委員会の方針や戦略に絡めたその上でサッカーを語っては空に鉄砲玉打っているようなもので、虚しい作業である。
その戦いはチームを応援・後押ししている市民やファンから見れば戦争であるし、一歩も譲れぬ自らの誇りを賭けたものであろうが。
しかしどんなに野蛮なサポーターや狂った観衆がサッカー競技場を埋めたにしても、その外に出れば市民たちは普通に穏やかに生活しようとしているし、自らの生活のために額に汗して労働しているのだ。西海岸のメキシカンな人々も、南部の日焼けた人々も。
当たり前の話しだが。