「新しい舞台を用意する前に」その1.

ジーコジャパンの4年間を総括するには、最終章が劇的とも言えるほど悪夢の結末であったため、なんとも、気を取り直す時間が必要なのかも知れないw

いやしかしトルシエジャパンの4年間だってキチンとは総括なんぞしてないのだ。実は。
当時「田島リポート」は存在はしていても、世間は何も総括しないまま、あのやや上ずった”鶴の一声”が鳴り響いたのだ。
ジーコには聞いたのか?」
世間はトルコ戦のたった1戦を大きな教訓にして新しいページに移ってしまった。

鶴の短絡思考は、やがて悪夢を生む。
ジーコ好きのストレス

代表監督としては論外と思ってはいても、個人的には自分のようなジーコ好きな者から見れば非常にストレスフルな4年間であったw

ジーコは昔、観客を魅了する名優だった。

しかし単に名優でしかないジーコのやり方はこうか。 
アルトサックスやトロンボーンの名手を舞台に揃える。 
しかしまるで前衛的なフリージャズのように攻守のリズムを合わせずに演奏を始める。 
最初から最後までアドリブだらけのJAZZは幼稚な騒音でしかない。 

ドイツやイタリア代表のような交響曲が演れるわけがない。 

それとジーコの指揮官としての位置づけと目標は「WC出場」の以上でも以下でもない。

●翻って。
トルシエは脚本家であった。

本大会前の北の丸(ジュビロ磐田の半合宿所)キャンプの象徴でもあった中山ゴンの、彼の使いどころを知ってる指揮官はトルシエを置いて他にないと思っているが。
そういう意味ではトルシエはたった一人の交代枠で観客の心を掴む術を知っていた。

トルシエは役者たちに精緻な台詞を用意しつついつも新鮮な舞台を用意していた。
いつも試合前のホワイトボードはマーカーで塗りツブされ、数多くの矢印と位置取りが記してあった。

そして脚本家と演出家の役を十分に果たし少なくとも地元開催の目標は達成した。