竜馬とともに死す

私は、10年ほどまでは結構時間が取りやすい環境にあったので、時々、京都へ行くのが、本当に楽しみであった。
京都といっても観光ではなく、墓参りなのだが。

京都の東山に、霊山という墓所がある。ここに中岡慎太郎坂本竜馬、彼らがふたり並んで眠っている。

ある年の夏、仲間と連れ立って高知県の土佐の北川村へ出かけた。北川村は四国の東の突端、室戸岬のすぐそば、奈半利川を連なる山あい沿いにくねくねと登りきった所にある。高知市からはかなり遠い。

そこが中岡の生まれたところだ。北川村には中岡慎太郎記念館だけでなく彼の
生家が保存されている。村の前田さんという方が中岡慎太郎研究家で、前田さんのお話しをその生家でこころ静かに聞くことができた。

前田さんから、中岡は、3歳の頃から学びを始め、7歳の頃には90分かけて4キロの急坂の山道を毎晩、四書五経を学ぶために歩いたと聞かされた。
一度、中岡慎太郎の小さな生家の座敷に座し当時のことを思うと、畳のその下からエネルギーが湧き起こってくる思いがする。

江戸末期には、何故、この時代に、これほどの人たちが集まったのか、と思われる位、大変な人々がこの世に生を受けている。
中でも飛び切りの天才は、福井藩士・橋本佐内であろうか。なんと15歳で「啓発録」を書き、藩医として医学を学ぶかたわら蘭学を学んだ。安政の大獄以後29歳の時に、吉田松陰らとともに大老井伊直弼に首をはねられたが、吉田松陰とともに、その時代橋本左内に影響を受けた人は数知れない。

西郷隆盛は、昔もらった橋本からの手紙を、終生大切に持ち歩いたという。
西郷が身につけていた袋(バッグ)の中には、彼の「志」が入っていたのだ。西南の役で若い人々の御輿に乗って、彼らと共に亡くなるその日まで。橋本の手紙は何度も何度も西郷に読まれたのだろう、ボロボロになっていたらしい。

さて、中岡慎太郎は、骨太の字を書く。
彼は、天を突き抜けるような力強い字、そのままの人生を全うした。
彼の面構えを見ると、いかに一徹に”志”をおいかけて、生きたかがわかる。竜馬とともに東奔西走した中岡を突き動かしたものは、近代日本の基点になった時代を変える「志」しか、なかった。
この国の、今の時代の私たちの4、5代前の時代に、そんな人々が生きていたのだ。

中国の三国志の時代とともに、近代日本の夜明けの時代の人々は、私たちを心ときめかせてくれる。