複写ハガキ

尊敬する熊本県八代の教育者、徳永康起先生は、遠く離れた教え子たちとの交流を、複写ハガキを通して実践された。
発信する相手の教え子が30歳を越えたとしても。
病院のベッドで、亡くなる直前の意識が薄らぐその日まで、それは続けられた。
徳永先生のこの世を旅立つ前の最後の複写ハガキ(絶筆)を、宛先となった方に、生で見させて頂いたことがあるが、それは、私にとっては壮絶とも言える内容であった。

『 千羽鶴  一羽  一羽に  輝きて 』

最後の力を振り絞るかのような震える手で書かれた”絶筆”を手にして、思わず私は涙を落とした。
病室の窓辺に下げられた千羽鶴をもらった相手に対して、旅立つ前に11文字にまとめ表現されたのだ。
徳永先生は、生涯において2万通以上のハガキを教え子たちに出されたそうだが、先生の逸話は数限りなく、いずれも、涙なしには聞くことができない。
徳永先生の残された足跡、自費出版の小さな本は、私の宝ものでもある。
*いつの日か、徳永先生について、このBLOGに書けたらと思ってる。
先生と直接に交流され、現在全国に出向き、複写ハガキをすすめておられる広島の坂田道信さんこそ、徳永康起先生についてのその”語りべ”であろうか。
坂田さんの講演は10数回聴いたが、聴くたびに新しかった。

ハガキは郵便ポストへと投函する。
そして時間をかけて数日後には相手へと届く。
ネット社会に慣れた私たちから見れば、なんと、まどろっこしくて面倒で手間のかかる作業であろうか。
確かに、スピードの点では圧倒的に劣等ではあるのだが、しかし、人と人のこころを繋ぎとめる働きはネットの何万倍もの効果があるのだろう。

私も、当事者を勇気づけたり、励ましたり、心からのお礼を伝えたい時に使うのだが、ハガキはオープンで、本人だけでなく家族も見ることができる点と、何度も目にすることができる点がその特徴であろうか。

そのむかし、一度、入院中に貰ったが、ハガキをしわくちゃになるまで何度も手にしただけでなく、何度もありがたさに感謝したのは言うまでもない。気持ちのこもった文字は、薬以上に相手の心に染み込むのだろうか。
言葉は、”言霊”(コトダマ)とも言う。

複写ハガキは、控えが手元に残るので、ある意味日記代わりにもなる。
家内も、学校で、国語の授業として子供たちに一冊(50枚分)の複写ハガキの控えを持たせ、教室の子供たちの祖母宛てに、祖父宛てに、単身で働く父親宛てに書かせる習慣をつけてさせている。
もらった祖父・祖母、父親たちが、いっときの幸福感に浸されるのは言うまでもない。
果たして先生(家内)も、夏休みは毎日子供たちから自宅に来るハガキの返事に、おおわらわであったが。
坂田さんによると、

ハガキ一枚10分くらいの時間を、宛先の相手のために使うということは、
一生のうちの限られた大切な10分の時間をひととき、相手のことを想って消費するのだ、と。
ハガキに刻み込む文字は、その魂の言葉なのだと。

複写ハガキは、実践してみて初めてその効用が理解できる。

揶揄、悪態、悪口、雑音、陰口を目にすると、こころは曇り、歪み、傷つく。傷つくと、癒すのにも時間がかかる。
おそらく、ハガキには、それらとは無縁の世界が広がるのだろう。
素直な心でハガキに立ち向かい、お礼、感謝、心配、いたわり、喜び、それらの言葉を書き連ねるうちに、歪んだこころも透明に近づくのだろう。
そして、それは、メールやメッセージで瞬時に伝わる言葉よりも、こころ深く伝わるのだろう。
私には縁遠いことだが、修行のひとつとしてハガキ書きにいそしむ方もいる事は確かだ。
「人は皆、幸せになろうと希望しそのことを求めている。」
真の幸せ感は、人それぞれだろうが、幸せ感の感度を磨く訓練にはなるかも知れない、とは思う。

この時代だから。ハガキで繋がる心豊かな世界、そういうネットワークがあっても良い、と思うのだが。どうだろう。