「クラブ・大分トリニータの成功」その2.

■九州サッカー事情
私の住むこの地方は、プリンスリーグやKYUリーグをはじめとして、J入りを希望するサッカー熱は今やかってないほどに盛り上がりを見せている。
現在、J1に大分、J2に福岡と鳥栖(佐賀県)の3クラブがある。中でも、クラブの経営基盤作りは、やはり大分が頭ひとつ抜けている。
J入りについては、熊本、長崎、沖縄、宮崎をはじめ遅れていた鹿児島などもその動きがあり、中でも熊本は、官庁、民間、協会がスクラムを組み、メディアの後押しも含め万全の体制を作ろうとしている。
そのせいかロッソ熊本は、全勝でKYUリーグを制しようという勢いである。”もっこす”達の後押しを受けて、ロッソの地域リーグのゲームの観客動員も今やJ2レベルまで達しようとしている。
やがてこの地方の全県(地域)に、Jクラブができる可能性もあるだろう。
■クラブの強化は一日にしてならず
私は、”トリサポ”ではない。
また、大分がどこより素晴らしいとか、何の問題もなくベストな運営をしているとか褒め称えるつもりは毛頭ないが、”ひとつの成功例”として、大分が今後のサンプルにはなり得ると私は思う。
J1では新潟に次いで若いクラブである大分について3回に渡って考察してみたい。
さて、大分のクラブ設立は94年。

その年、県1部リーグで10戦全勝し、翌95年にはKYUリーグで優勝。3年間で一気にJFLへと駆け上った。
私は、当時からクラブを支えてきたゼネコン社長と旧知の間柄であるが、チームを支えるサポは、当時はホンの一部の高くて強い”志”を持った連中の集まりでしかなかった。
JFLの苦境の3年間を知るものとして、この低迷時期(最初の2年間は10位、12位)を思うと懐かしく、また現状を思うと夢のような遥か彼方である。この3年間があって初めて現在の大分があるのだ。

99年に正式名称を「大分トリニータ」に変え、その年にJ2入りしたチームはいきなりの3位と好成績を挙げた。
02年までのJ2、4年間で大分はチーム力をたくわえ、03年ようやくにJ1の舞台へ立つことができた。
01年に、ビッグアイが完成し大分のホームとして使えるようになった。
この4年間と、JFL3年間、合計7年間のクラブの粘り強い取り組みは非常に重要な期間であると私は思う。
また01年にビッグアイが完成。翌年から大分のホームとして使えるようになった。
■安定した動員力
数値は、1試合平均の観客動員数(東京はFC東京)。動員力ベスト5

   03年1st  03年2nd  04年1st   04年2nd
新潟 ーーーーー  −−−−−  40,489 35,240
浦和 32,746 30,183 32,746 40,085
東京 22,154 27,362 24,928 26,022
横浜 27,616 22,631 26,830 22,519
大分 22,260 20,597 20,730 22,904
平均 17,848 16,854 18,763 19,168

さて、過去の輝く戦歴があるわけでもない、サッカー熱が盛んな地域でもない、ひとつの地方都市である新潟と大分が、何故にこうも安定した観客数を動員できるのであろうか。
*追記

週末に、味の素で色々とコトが起きたようです。残念なことです。
サッカーにおいての、中でもゴル裏における煽りのアジテーションは理解できる。
しかし、増幅する負のエネルギーを、幼児のごとく撒き散らすなとはいわぬが、努めて選手への後押しエネルギーに変えられないものか。