誠実さとは?
第44回衆議院選挙が公示された。
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鮮烈な政治闘争(ゲバルト)に明け暮れた全共闘(学生時代)の頃はともかくとして、成人(転向)してからの自分は、「政治と宗教の話しは、公けの場所では遠慮したい」といつでも思っている。
いずれも他者に理解を求めるべき筋合いのものでない、のと。また、思想信条はあくまでも”個人の領域“であるからだ。
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うまく書けるかどうか知らないが、
衆議院選挙にちなんで、「選挙の話し」を通して政治家としての「志」の話しをしたいと思っている。
以前にもこちらに横浜市長の中田さんの話を書いたことがあるのだが。
今日は、多久市長(佐賀県)の横尾さんについて少し書いてみたい。
中田さんの旧来の仲間(松下政経塾生)でもある横尾(俊彦)さんは、国政選挙に何度か挑戦し、落選した経歴を持つのだが。 97年の夏、本来志向していた国政選挙でなく地方都市の市長選に打ってでることになった。 自分は、微力ではあったが、衆議院(宮前区、都築区選出)時代から現・横浜市長の中田さんの何度かの選挙を手伝った。 そして実は、ずっと昔の20代の前半の頃に、断れない人から頼まれ選挙本部中枢に入り、福岡市長選を経験したことがある。 その時は、己の睡眠時間を削り取り働き、どれだけ「地盤」を強化するか、という役割を担って頑張った経験がある。 地方選挙の場合は、推薦団体や法人を強固なまでに取り込むか、が勝負であるからだ。 基本的に、自分の青い時代は革命家を目指していたし、元来が選挙や祭りが好きな方である。
さて、横尾さんである。
選挙の相手は「現職」で、しかも選挙で何度も当選を果たした強敵であった。 現職には、日本共産党以外の全ての政党が支持・推薦した。 自民党も社民党も、公明党も、そして、あらゆる宗教団体が現職を支持した上に、医師会も、農業共同組合も、教職員組合も、商工会もあらゆる団体・組合が現職を推薦した中での選挙であった。 横尾さんのバックには、地盤もない。看板もない。資金も左程ない、という(自分にとっての)経験上、最も劣悪な選挙条件であった。 横尾さんの後押しをし、協力していく人々は、わずか数十人の親戚・友人・知人でしかなかったのだ。 しかし、彼らには絶望的な情況を変える!という強い意志があった。横尾さんの志は若い仲間たちに共有されていた。
自分も、潰れた小さな中華料理屋の空き家を選挙事務所に使った場所には何度か出向きお手伝いをしたのだが。
さて、
その横尾さんが97年の夏の市長選挙において、何故、短期間で市民の心を打ち、圧倒的大差で選挙運動に勝利したのであろう。
まず最初にやったことは、選挙事務所の建物の外側に、数十本の箒や塵取りを保管するスペースを作った。 空き缶や燃えるゴミ、燃えないゴミを仕分けするスペースを作った。 事務所の周りの空き缶を拾い、草取りをした。 潰れた中華料理屋はキレイになり、風が通り始めた。 事務所内の入り口カウンターには小さな花瓶とともにカンパ箱が置かれた。運動員の弁当やお茶はカンパで賄った。 選挙は、地方の公民館であったり小学校・幼稚園などを借りて、「立会い演説会」というのを行う。 その演説会の前後、横尾陣営は、運動員が徹底して近隣道路の掃除をし、片付けたゴミを持ち帰った。 公民館の靴脱ぎ場では、脱いだ靴を揃えることにした。笑顔を沿えて、徹底して。 横尾陣営の選挙事務所は、瞬く間に巨大なゴミ置き場と化した。
己の政治的信条と志をただ訴えるだけでなく、候補自ら箒(ホーキ)を持ち掃除する運動を巻き起こしたのだ。
そして選挙期間中に、町はキレイになっていった。
現職が、どんなに立派なことを吼えても叫んでも、新顔の小さな実践の前では、色あせてみえる。 そして、人のこころを突き動かすのは、スローガンやマニュフェストでなく、小さな実践の積み重ねであろう、と自分は思う。 短い期間で人の心は動くものだ。
「誠実」とは、「言ってること」と、「やってること」がキチンと重なることであろうか。
そして、人はみな誠実な人に好印象を持つ。
1997年9月、初登庁の日、市役所の建物の前を掃除する若者がいた。
彼こそが、その日から市長となるべき横尾俊彦氏である。