哀悼

自分には、一生アタマの上がらない恩師がいる。
恩師、3人。
自分が、これまでなんとか社会人として活動できるようになったのも、いっぱしの仕事人としてそこそこ仕事ができてきたのも、他者を尊重し少しは己を信じることができるようになったのも、この3人の恩師がいればこそ、である。
昨日、そのうちのひとり、大切な恩人が遠く旅立った。
父を早くに亡くした私を3歳のころから目をかけ、これまで幾多の曲折苦難にあらゆる助言を惜しまなかった方。

悲しみに暮れた12月15日の夕暮れ。
背振(せぶり)の山の頂きと、宝満の渓谷には新雪が白く輝いていた。

■そして、仰木さんも逝った。
少年の頃。平和台球場のウグイス嬢が「2番、セカンド、仰木」とアナウンスする声が、今でも耳に残る。
そして稲尾でもなく中西でもなく、豊田でもない。その後の野球人生では指揮官として仰木さんが師匠の三原さんに最も近い方である。
いつも中洲から朝帰りの荒くれどもの中に混じり、選手としての仰木さんは颯爽として、派手さはないが深い味わいを見せていた。

東筑高校出身。高倉健さんと同じ川筋男の九州男児
54年西鉄ライオンズに入団。67年現役引退。西鉄近鉄でコーチ。
88〜92年近鉄監督。94年〜01年オリックス監督。
04年野球殿堂入り。
数々のリーグ制覇などを経る中「仰木マジック」の名が広まる。
野茂、イチロー、田口など個性的なメジャー選手を育てる。

仰木さんは、自らの時は葬儀も告別式も大仰にせずご遺族だけの密葬とするように遺言。
平和台の生温かい薄暮の空気の中、耳に残る「2番、セカンド、仰木」。 
そして、昨年「殿堂入り」したばかりの仰木さん。逝く。

謹んで哀悼の意を捧げます。