「新しい舞台を用意する前に」その4.

■極端な日本人
堀江氏がインサイダー取引容疑で捕まると、その途端に猫も杓子も堀江パッシング。
どうかしていると思う。
それまでと違って振り子が少し反対に触れただけで、彼の先進的なものの考え方も斬新な取り組みも全く認めようとしない日本人。
ホンの少しのタイミングで雪崩を打つごとく豹変する。
村上某氏も同様。昨日のヒーローが今日は地獄へと落とされる。
実は、文化度の低い国(地域)ほど振り子が大きくブレるらしいのだが。
■成果と功績
サッカーでいえば。
元代表監督であるトルシエは、トルコ戦を境にある種の人々にとっては失望と絶望の烙印の人となってしまった。
たった1試合がトラウマゲームとなってしまったのだ。
シドニー五輪でベスト8へと進み、アジア杯を制し、コンフィデで善戦したその手腕によって自国開催のWCでもグループリーグを突破したのに、である。
彼がメディアのおバカな記者連中とうまくやれなかったとしても、代表監督としての職責は彼なりに立派に全うしたのだ。
彼を異常者扱いするのはどうかしていると思うが。多くの人々は良いところは認めるという度量が無さ過ぎる。
ジーコも同様。
確かに少なくとも(誰が見ても)代表の指揮を執るべきではない人物ではあったが、アジア杯をなんとか制し、2度目のWC予選を通過した。
実に多くの問題を孕みながら抱えながらも、実は彼なりに初期の目的は達成したのだ。
「二度と日本の地を踏むな」「どうせトルコでも惨敗するに決まってる」などの文言を聞くと自分はひどく悲しくなるし発言者を哀れに思う。
代表チームの総括は必ずや果たさなければならないが、ジーコのJ創設以来の奮闘と、プロ意識を日本のクラブチームに根付かせようと努力した彼の実績と貢献は決して消えるものではない。
■宮本の論理とヒデの感性
私は所要のために今年のオールスターは見ていない。
しかしその後のヒデを主人公にした大袈裟なタイトルの特番は見た。そして翌日の情熱大陸は宮本恒靖。これも見た。
これまで約6年間、代表チームを引っ張ってきた二人。
ヒデはあくまでも「攻め」の視点で語り。宮本は「守り」の視点で語るのだが、ふたりのゲームに向かう微妙な意識のズレが実に興味深かった。

たぶん、TVの扱い方を見れば一般大衆としてはヒデの言い分を聞くことだろう。
そしてこの番組の手法は代表キャプテンである宮本に対し、批判的な見方に誘うことだろう。
そして人々は「あの場面で三都主が寄せれ切れてない」とか「宮本の統率するDFラインが低過ぎる」とか訳知りで言うのだ、恐らく。

しかしヒデの言い分はゲーム解説者としては実に正しい見方ではあるが、当事者でありゲーム参加者としては自分はどうかと思う。
この二人の微妙な意識のズレこそジーコの限界であり代表チームの限界であったのだが、このことはジーコの大きな責任と言っても良いと思う。
しかし実は、ゲームの見方は11人の先発メンバーに11通りの見方があることを知っておかなくてはならない。
番組で語った事柄はあくまでもヒデの視点にしか過ぎないし、もちろん今は黙して語らないがヤナギにはヤナギの見方があるのだ。
うまく表現できないが、昨今の情況は象徴的でホンの瞬間に表出された印象的な部分だけを切り取り(際立って印象に残った部分が深層心理に深く影響して)「ヤナギパッシング」は起こっている。
番組を見て。ヒデのように影響力のある人間がある種仲間を売るような発言はしてはいけない、そのことでヒデに「徳がない」人物と見なされる恐れがあるからだ、と思った。*1
■ただ流れに乗るだけ
ネットは瞬時に大量の情報を吸い上げるが、加速度的に大きな流れをも作る。そして人々は全体の流れを読みつつ、無意識にもその流れる潮流に沿って思考しがちになる。
今は期待感に溢れているが、ただ流れに乗るだけでなく私はオシムさんのサッカーが本当に現在の日本の「代表チーム」のサッカーに向いているのかどうか議論すべきだとも思う。
代表監督の存在は、「ジーコが駄目だったからオシムさんで」というような簡単なものではないからだ。

*1:この番組は、制作、プロデュース、共演者、大道具、照明やカメラの位置までヒデ自らが関わっているnakata.netTVをゴールデンタイムに放送しただけ、と自分は見てました。ついでにいうと広告を出してる企業までヒデとの関わりがある。良い意味では、一サッカー選手の存在感の大きさを表現。悪い表現で敢えて言うと、何らかの故障を抱え欧州サッカーでは段々と通用しなくなった選手が自己演出によって自らの商品価値を上げる為の番組。もちろん決してそれが悪いことではないのですが。