大河流れる 2.

サウジアラビア戦はオシム就任後最高のゲームとなった。
あくまでもピッチを柔軟に且つ広く使い、AからB地点へと一本の線を作るような速くて強いグラウンダーのパス。
全員が攻撃に参加し、波状的な連携。守備も同じ。動線から動線へと一度たりとも止まることを知らないサッカー。
このゲームでジーコが率いたチームが完全に過去のものとなった。
昨年の1月、三国志の史跡を訪ねて揚子江(長江)沿いや漢水沿いの街に出向いたが。彼の地の大河は過去から未来へと大きな流れを作っていた。
うまく表現できないが、オシムの手法は、ひとつの代表チームに止まらずまるで何もかもを包み込むような大きな流れ、未来へと続く大河の流れのようなものを作っているように感じる。
ジーコが失わせた世代間の躍動感を復興させ、アンダー世代へもそれが息づくようになってきた。
ところで、今更だが。昨今のジーコ叩きはどうかと思う。ジーコさえ批判していれば自らのアイデンティティが確立できるとでも思っているのか。メディアだけでなくネット界の恐ろしいような幼児性はまるでファシズムのそれである。
確かにジーコは代表監督としては未熟で稚拙であった。本番のWCでも結果は残せなかった。
しかしあのチームがピッチにいる間に、我慢して布団かぶって寝ていたかのような手の平返しはうんざりする。
確かに4年間のプロジェクトは失敗だったと思う。後に残るような大河も流れなかった。
しかし、何も選手たちまで否定することはない。私がオシムに不十分さを見ているのは、それなりに頑張った選手たちまで過去の闇の中へ追いやっているようにあたかも見える点である。