苦節50年

松本さんが第一線を退くという大ニュースが飛び込んできた。
既定の路線とはいえイクオさんに思い入れのある世代としては、このことが現実ともなると大変ショックなことである。
松本さんの後を岸野さんが継承することは誰もが認めるところであったし、実際スタジアムに行くと、ゲームは岸野さんに任せっきりであった。
天皇杯の川崎戦、リーグ戦の湘南戦と続けて観戦したが、最近は岸野さんの後ろからジッと腕組みし、戦況を眺めるという風情であった。
激情を持って選手と一緒に戦う岸野さんの赤い帽子姿を見ながらご本人も決断したのだろうか。
しかしである。
松本さんはどんなに肩書きをもらおうともデスクの人ではない。
松本育夫は現場にいてこそ活き活きと生きる。
おそらく井川さんの説得で執行役員の席に座ることになったのだろうが、個人的には元気な間は「総監督」でベンチに座ると思っていた。
今後は、できれば地元の子供たち、高校、大学など、地域の指導にも当たって欲しいし。また現場の指導に限らず講演活動や「松本育夫講座」など、井川さんのプロデュースで新たな展開が待っているのかも知れない。

松本育夫
1960年:日本代表初選出
1964年:東洋工業サッカー部入部
1968年:メキシコ五輪代表・銅メダル、川淵氏の右ウィングのレギュラー奪う
1979年:WY代表監督、選手に風間、鈴木淳、柱谷幸、水沼ら
1983年:マツダの研修中、つま恋ガス爆発に遭遇、瀕死の重傷を負う
1985年:アジアY代表監督、選手に井原、ゴン中山、黒崎、磯貝ら
1996年:京都パープルサンガGM就任(〜99年)
1999年:川崎フロンターレ監督就任、J1へ昇格させる
2000年:川崎フロンターレ社長に祭り上げられるもその年に辞任
2002年:地球環境高校監督就任、同年高校選手権出場
2004年:サガン鳥栖監督就任(Jリーグよりの要請を受け)11位
2005年:サガン鳥栖井川社長就任、岸野氏をヘッドに迎え同年8位
2006年:11月21日現在、J2リーグ戦3試合を残し4位