再スタート

今年は、1982年静岡県藤枝市に創立された中央防犯サッカー部(後の藤枝ブルックス)が、九州福岡の地にやってきて(後に「アビスパ福岡」と名を替え)丸、20年が経過する。

が、昨今は当時の50万人署名運動によって福岡市が誘致に乗り出した頃のことを知る人も少なくなりつつある。

20年の紆余曲折。
20年の遠回り。

その長い長い時間の経過とともに、その中心になって動かれた人たちもクラブとは縁遠くなり、スタジアムへの関心も次第に薄れゆく時代となった。
アビスパ福岡は、毎年、立ち去った人の数だけ観客数を減らし続けた。
そして。
昨年末にはクラブの資金ショートが表面化し、メディアを賑わした。全国のサッカーファンや他地域のJクラブのサポーターの多大な支援をいただくことになったが、実は、クラブ存続の危機はこれまで何度もやってきていた。
◆葬り去られた「2009年宣言」
株主企業の支援力にも限度が越え始めた2009年、このままでは存続すら危うくなるという危機感を持ったソシオやクラブ幹部が中心となって2009年宣言実行委員会が立ち上がった。
クラブのトップを含めたメンバーから成り立つオフィシャルな委員会は、福岡市役所の会議室に毎月何度となく集まり、「集客」問題や「街との関わり」に関しての討議を重ね続けた。
討議を重ねるに従い、やがて2009年実行委員会による「アビスパ福岡の骨太方針」が打ち出された。

残念ながら。
その後のトップを含めた取締役人事の変更によって(2009年宣言実行委員会による数々の指針は)何事もなかったかのような振り子が戻ったような事態となった。
そして、昨年末の資金ショート問題は起こるべくして起こった。
◆プロのクラブチーム出身
鹿島アントラーズ出身の野見山氏の社長就任は、形としては福岡市の要請によるものである。
しかし、今回の人事は、地元企業や行政からの出向人材では暗黒の20年をまた繰り返すことに繋がる、という危機意識が水面下で大きく動いたように見える。
株主企業である七社会の発言力は次第に弱まる中、(地元マスコミと”一心同体”のように見える熊本とは違って)実はアビスパ福岡パッシング記事しか書けない西日本新聞社人事の空白の3年間。
この期間、素人を絵に描いたような稚拙過ぎる運営が果たしていつまで続くのか危うい期間ではあった。
今回の野見山氏が打ち出した「諮問委員会」は2009年宣言当時の生き写しとはいえ、長い長い遠回りの末、ようやくプロのクラブとして再出発できそうな雰囲気となってきた。
野見山氏の経営手腕は未知数ではあるが、これまでのような素人の行き当たりバッタリの経営にだけはならないように思える。