「三国志の旅」3

orion10142005-01-19

■「苦肉の策」(「三国志演義」より)
三国志の物語は、国捕り話の戦(いくさ)もの。しかし総体としてそれは人間ドラマといえる。それ故か、後世にも遺る多くの言葉を残しているし、現代日本でも普通に使っている言葉も多い。
我々が普通に使ってる「敗北」という言葉も、「北に敗れる」という意味からきている。北とは、魏(ぎ)の国のこと。魏の曹操(そうそう)に敗れた戦(いくさ)の時に使われたのだろう。1850年前の言葉が今も生きる。
「苦肉の策」:三国志のハイライトは「赤壁の戦い」である。苦肉の策は、そこで生まれた。

赤壁の戦の時、呉の老将黄蓋(こうがい)は、周瑜(しゅうゆ)にわざと罰せられて傷を負い曹操に”投降”を申し入れる。呉の沢の策謀も功を奏し曹操黄蓋の投降を許す。黄蓋は投降すると見せかけて曹操軍に火計をしかけ緒戦で勝利をものにした。

水軍の戦が不得意な曹操は、赤壁北岸、長江中流の川幅4kmの位置に呉軍と対峙した。赤壁の戦いについては別の日に書きたいが、その時に生まれた「策」(だまし)が、功を奏する。
曹操軍は17万とも言われる。対する超美形・ 周瑜率いる呉軍はわずか3万。呉は諸葛孔明のアドバイスなどを参考にしつつも策を労する。黄蓋は、鞭打たれ身体の肉は傷だらけになりながらの大芝居を打つ。もちろん曹操軍のスパイがいる場所で。そして投降と見せかけ、つながれた船の魏の曹操軍を火責めにする。季節は冬、吹くはずのない南東の強い風を、諸葛孔明は戦術的に見事に読み、吹かせる。曹操は北西へと逃げ敗走する。

「苦肉の策」の言葉の背景は以上だが、その意味は、自分の肉体を苦しめて成功を手に入れようとすることである。
普段は追いつめられた状態で使うことが多い。

赤壁資料館」には当時の模様が克明に説明されていた。
呉のヒーローは、関羽でも孔明でもない。もちろん、周瑜である。現代においても尚。
周瑜は、呉の国の絶世の美女、小喬と契りを結ぶ。小喬の姉・大喬は、孫策と結婚。孫堅の長男である孫策は、幼友の周瑜と兄弟の契りを結ぶが、事実上の義兄弟ともなる。しかし早くに世を去る。呉の国を安定強固にしたのはその後を継いだ弟・孫権である。むろん、兄の勢力をスムースに継承できたのは紛れもなく周瑜の功によるものである。周瑜は、愛情込めて別名「周郎」ともいう。孫策孫権兄弟の父・孫堅は、孫子(「孫子の兵法」)の末裔とも言われる。

赤壁を、川岸まで降りて写す。対岸は霞んでいた。

*余談ですが。下の「三国志の旅.2」のコメント欄に、「代表の宮本選手の眉を寄せた美貌が思い浮かびます」とのコメント頂きました。サッカーファンさん、反応して下さってありがとうございます。
周瑜は、男も思わず惹きこまれてしまうような超美形だと、現地を案内してくれた赤壁旅行社の劉さんはおっしゃっていました(笑)
確かに、欧州強国チームと本番(06WC)で戦い、見事に大男たちを凌(しの)ぎ切った時の、マスク無しの、我が宮本キャプテンかも知れませんね。

*写真は、巨大な周瑜像。赤壁の上部、高台に、堂々と立っている。近くには、諸葛孔明が東南の風を読んだ(呼んだ)「拝風台」もスグそばに。